グローバルナビゲーションへ

本文へ

ローカルナビゲーションへ

フッターへ



TOP >  Ethnograffiti >  民族誌的に読み解くドキュメンタリー映像

民族誌的に読み解くドキュメンタリー映像



グローカルな世界を人類学的に考える

Ⅰ.「民族誌」と比較、そして多様性

社会学者、岡原正幸らが提唱する「生の技法」[註1]。その多様性を具体的に知るために、文化人類学がとるオーソドックスな方法のひとつは、この地球上の人々の生活について書かれた「民族誌」(ethnography)を参照することであろう。私自身も、日本国内のいくつかの地域と東アフリカ・ウガンダ共和国の東部にある村の民族誌的研究を続けている[註2]。このばあい、ひとつの地域の民族誌を作成するためには、長い時間が必要とされることが多いので、いきおい、定点調査的になり、比較は明示的ではなくなる。もちろん、ある地域では「一夫多妻婚が行われている」という言明は、「一夫多妻婚が行われていないその他の地域」との比較なしには語れないので、つねにこの「民族誌する(doing ethnography)」作業は潜在的に比較である。かつて英国の人類学者、エヴァンズ=プリチャードは、次のような逆説を語ったという伝説がある。「人類学には方法は一つしかない、比較法である。―そして、それは不可能なことだ。」[註3]
 
さて、多様性を語るとき、どういった民族誌を紹介するか、という選択は、常に非常な困難を伴う。そもそも、文化の概念やその範囲自体に、完全に客観的な基準を(人類学が、というより)、人類は持っていない。比較しようにも、何と何を比較したらいいか、完全にはわかっていないのだ。たしかに、それはある意味で「不可能なことだ」。

Ⅱ.文化概念の多様性

人類学はしばしば「異文化」理解の学、といわれるが、その出発点であるはずの「文化とは何か?」という問題で、すでにさまざまに争点はわかれる。周知のように、もっとも包括的なのは、E・タイラーの以下の定義である。「知識、信仰、芸術、道徳、法律、慣行、その他、人が社会の成員として獲得した能力や習慣を含むところの複合された総体のことである」。
しかし、これは人間の営みすべてを包括したような定義であり、「その他」という表現が加えられている時点で「獲得したものすべて」を示しているに等しい。

生活実感としては、個人としての私たちは、さまざまなサブシステム―学校だったり、企業だったり、地域自治体だったり―に同時に属している。そこに着目すると、日本が仮に日本語が通じる、という意味でひとつの文化圏だったとしても、文化は入れ子状にたくさんのさまざまな大きさのものが包摂関係になったり、重複したりして存在することになり、文化も社会も多層的かつ立体的なものに見えてくる。もちろん、文化は常に閉じられたかたちで存在するわけではないから、移民や帰国子女、あるいは留学や海外勤務などの海外経験を契機にして別な文化圏に足場を持っている構成員もいるはずである。

また文化はお互いにその要素を真似たり、借用したりするので、その異種混交性を強調して「異なる種類の知識形態の合成物」としても考えることができる。また、もっと構成員たちの主体性や解釈という実践に焦点を当てるならば、なにがしかの出来事や世界自体を解釈のための「知のストック」とするという考え方がしっくりくることもあるだろう。文脈によっては、文化の背後にうごめく政治性と、その政治性を隠蔽する際に中立を装う手口について指摘して注意喚起する必要もあるだろう。また別の人びとは、文化は理念であり、そして生活のあり方であるという。そういった立場にも一理はあり、いちいち納得させられる。
こうしてみると、文化とは何か?ということの初めのところで、人類学は、というより、人類は、大きな困難を抱えているのである。

Ⅲ.獲得される文化と価値体系

ただ、ひとつ明らかなことは、言語に代表されるように、文化は「後天的」「獲得的」に学ばれるものである、ということである。このことは包括的すぎるとされるタイラーの定義にもすでに担保されていた。いいかえるとDNAにのっていない情報によって構成される、ということだ。ここが決定的に多様性に結びつく点であり、地球上の人類の「生の技法」の多様性を生んでいる根本原因であるといえる。また、この多様性が、地球上の多様な自然環境に人類が適応することを可能にしてきたのである。それだから、文化を自然環境への適応の結果生まれた機構、とする考え方にもそれなりに筋は通っている。しかし、ただし、とすぐにつけ加えなければならない。少なくともわれわれが眼前に見ることのできる文化は自然環境への適応の結果以上のものである。適応には直接関係なさそうな、一見不合理なものを数多く抱えているのもまた「文化」の特徴なのである。
議論を単純化するために、ここでは「文化」を「価値の体系」「観念の体系」と置き換えてみよう。なぜなら、タイラーの挙げた、知識、信仰、芸術、道徳、法律などは、それぞれ、何を知っておくべきか、何を信じるべきか、何を美しいと感じるのか、何を理性にかなったものと考えるか、何を合法あるいは違法と考えるか、という意味で、それぞれ広義の価値と観念の問題だからである。すべてにおいて具体的な物体とのかかわりで考えることもできそうだが、それをいかに解釈や評価するか、観念の体系のなかでの位置づけなしには考えられないものなのである。
やや唐突だが、私の研究対象に引きつけて具体例を挙げよう。病や死など、不幸は人類社会を不可避的に襲うものだ。その意味で、出来事の発生自体は普遍的である。しかし、まず、何を不幸と考えるか、また不幸が起こったとき、何のせいだと考えるか。あるいはどのような対処をするのかという問題には、かなりのバリエーションがある。構成員の突然の死に際して、墓参りしていないための祖先の祟りか、近隣住民のねたみによる妖術(witchcraft)、邪術(sorcery)か。死霊の観念が発達しておらず、死者は生者には何の干渉もしない、と考えている社会では前者は起こりえない説明であり、もっぱら生きている人の呪いや神霊の祟りが持ち出されたりする。「医療化」された社会では、「心筋梗塞」といった医学的説明が説明力を持つ。逆にそこでは「心筋梗塞」という医学的説明以外の説明は排除され、看過され、言及されないことになる。控えめにいっても後景に退く。ここに文化のバリエーションが色濃くあらわれるのである。それは社会の中心的な価値の表出でもある。特に病気や不幸に直面したときにはそれが部外者にもよく見える。1956年に、エヴァンズ=プリチャードは次のように述べた。

…アフリカのすべての民族において、有神的信仰、マニズム信仰[いわゆるマナイズム、マナへの信仰。あるいは祖先崇拝のこと:梅屋注]、妖術の諸観念、超自然的制裁を伴う禁忌、呪術行為などの諸観念が独自の結びつき方をしているがゆえに、各民族の哲学は独特な性格を示している。たとえば、一部の諸民族―バンツー諸族の大部分―では、祖先祭祀が支配的なモチーフとなっている。スーダン系諸族では、妖術が支配的モチーフとなっており、それに呪術や託宣の技術が加わっている。また他の諸民族、たとえばヌアー族では「霊」が中心に位置し、その周辺にマニズムや妖術の観念がみられる。そしてまた他の諸民族では他の概念が中心的位置を占めている、という具合である。何が支配的モチーフであるかは、ふつう、そしておそらくつねに、危険や病気やその他の不幸に際して人びとがそれらの原因を何に求め、それから逃れたりそれらを排除したりするためにいかなる手段をとっているかを調べることによってわかる…[エヴァンズ=プリチャード 1982: 494-5]。

こういった考え方は一般に「災因論」[註4]と呼ばれているが、こうした「災因論」的な考え方も含めて、その「文化」のなかで出来事を説明する資源は、その「文化」の価値観に支えられている、と考えられる。

Ⅳ.フィールドワークと民族誌

問題は、「文化」はその内部にいるものにとっては、「身体化」(embodiment)されているので、その細目にいたるまで当然ととらえられていることだ。空気の存在を普段意識しないように、その存在すら意識化できない。その文化を共有する者にとり、ある意味で「あたりまえ」になっているのが文化というものだ。民族誌の作成にあたって、人類学者は多くの場合、「よそ者」として、特定の価値観および考え方を、「あたりまえ」だと考えない視点から考え始め、分析することを目指している。そのためにフィールドワークに長期間出かけて現地の人々に交じって生活する調査方法と、それによって得られる一次資料がなによりも重視されている。長期フィールドワークとそれによって得られる一次資料、そしてそれにもとづく民族誌の作成の重要性が(しかもその調査による資料収集と分析、そして民族誌の執筆をひとりの人類学者が行うことが)人類学のいちばんの特徴である。それは、人類学にとっては単なる資料やデータ以上の意味を持つ。

この場合のフィールドワークとは、2年間が基本単位とされ、多くは単独で、現地語を学び、現地の人々(native)と近い生活をしながら質的調査をおこなうものである。質的調査とは、数量化する量的調査とは対照をなすもので、具体的な性質について詰めていく調査方法である。対象は数量化しにくい、あるいはできない性質である場合もあるし、あるいはする以前の未知の性質の場合もある。

2年、という単位にも一応の根拠はある。たとえば、どこからか日本文化の研究者が調査にやってきたとしよう。彼(あるいは彼女)は、秋祭りのもっとも盛大なところだけを見て帰って行った。だが、そこに暮らす人々からすると、秋の収穫祭は、田遊びなどの新春の予祝と対をなす。稲の豊作を願う年間通じての行事の一部である。だからその秋祭りだけ見て帰ってしまった研究者の調査資料はごく部分的な、不十分なものとならざるをえない。そこで、まず一年間通じて観察する必要がある。しかし、一年目は何があるかまだわからないし、見落としがあるかもしれない(実際、「今日は何もしないよ」といわれたが念のためにいってみたら精緻な儀礼を行っていた、ということは実体験としてよくある。真に受けていたら見落としていたところだ。見せるような派手なものはない、という意味なのであろう)。一つの行事がその年だけのことなのか、毎年同じように行われるものなのか、年によって形を変えておこなわれるものなのか判断できない。だから一応2年、ということになっているのだ。

私は2008年5月16日夜6:00ごろ、宮城県仙台市の青葉神社境内にいた。青葉神社は伊達政宗の御霊を祭神とする神社である。宮司の片倉重信氏は仙台藩家老で白石城主だった片倉小十郎景綱の16代目。そこで行われるはずの「御霊移し」の儀礼がはじまるのを待っていたのである。その前の年なら境内の明かりがすっかり消され、台に乗せられた神輿の周りに氏子崇敬者たちがあつまっていたはずの時刻である。境内のどこを見回しても神輿はない。昼間、勾当台公園に展示されていたのを目撃していたから、それを運搬してから儀礼が執り行われるのだろうと想像され、実際その通りになった。トラックに載せられた神輿が搬入され、例年よりだいぶ夜が更けてからの「御霊移し」となった。神輿の展示、というその年の特殊事情が儀礼の開始を遅らせたのだ。はじめてその儀礼を見た場合、どの部分が儀礼のコンポーネントで、どの部分がその年だけの出来事なのか、ルーティンとイレギュラーの区別が難しい。一回の観察レベルでは、構造とイベント(出来事)の区別ができないのである。そのためにも、儀礼に限らず同じイベントを複数回観察することには深い意味がある。

根ほり葉ほり詳しい情報を集めるためにも、あちこち動き回ることは少なく、同じ場所に住みつき、また何度も足を運ぶ定点調査のかたちをとることが多い。最近では国内の特定集団の「文化」を扱うことも増えた。対象は巡礼、暴走族、ホームレスなど実にさまざまだ。文化概念の規定のむずかしさが、ここでは研究対象の多様性となってあらわれている、といえそうだ。ただ、強調されるテーマはさまざまだが、基本的には文化や社会の内部機構はゆるやかであっても相互に関連して絡み合い、影響し合っているという前提から、記述に粗密はあっても古典的なテーマを一応網羅的にカバーしていることも多い。古典的テーマ、というのは、親族などにもとづく社会構造から始まって、政治・経済、法、宗教、などである。

Ⅴ.三つの生業を通じて考える

このような多様なテーマで書かれた地球上の膨大な民族誌のうちから、どの民族誌的事実を選定して紹介するか、という問題は、大変悩ましい問題である。たとえば、仮に読者が属している、もっともなじみ深い文化は、日本のある都市近辺の文化だとすると、そこから地理的に近いところから紹介していく方法、遠いところから紹介していく方法、などが考えられる。しかし、テーマは「生の技法」である。
地球上の文化、「生の技法」の多様性とその現在を紹介するに当たって、ここで私がとる方法は、おおきく3つの生業形態(modes of subsistence)を軸にすえて民族誌的事実を対照させ、議論することである。すなわち、狩猟採集、牧畜、そして農耕である。

これら3つの生業にもとづく諸社会は、自然環境への適応の結果、その社会独特の価値観を発達させてきた。この価値観は現在でも根づよく維持されていて、異なる価値観のあいだで問題がこじれることは現在でもよくある。いったんこじれると「あたりまえ」と「あたりまえ」のたたかいであるだけに、すりあわせは困難だ。私の調査するウガンダでも、畑を荒らした牛を傷つけた一家を報復のため惨殺する、という事件がごく最近起きた。加害者は牛の持ち主である牧畜を生業とする人びとで、惨殺されたのは農耕を主たる仕事にする人びとだった。当然、近代国家ウガンダとその警察機構内ではこの事件は殺人事件として処理されるのだが、当事者は納得しない。仲間を惨殺された農耕民は、大切な作物を荒らされて牛を罰するのは当然と考えた。牛ごときのけがの代償に人間を殺害することは予想の範疇も理解の範疇も超えていた。しかし、牧畜民にとっては、大切な牛を傷つける、というのは万死に値する、といってもいいほどの罪と解釈されたのである。

もっと卑近な例をとろう。われわれの国では、親世代などからの大きな相続でも期待できない限り、給与所得者が給料のなかから25年とか30年とか、ほとんど一生もののローンを組んで家やマンションなどの「不動産」を購入する、ということがライフイベントとして「普通のこと」とみなされている(日本全体としては結果的に家は余って、空き家が多くなっているというのに!)。給与所得者が日本人の「普通の姿」となったのもここ半世紀ぐらいのことであるが、そのことも私たちはうっかりすると忘れている。しかし、当然だが、例えば狩猟採集の考え方からすれば、このようなかたちでの土地の私有化への執着は普通でもあたりまえでもない。かれらの「財源」である「森」は「誰のものでもない」が「誰のものでもありうる」獲物を供給してくれるからだ。牧畜・遊牧の考え方からしても、家畜の水場と放牧地とセットでなければ、居住地の私有化は意味をもたない。水の供給の安定性や、牧草の減り具合によって移動することが多いからだ。実際にも、テリトリーや、面としての土地よりは、水場としての井戸や泉が私有権をめぐる紛争の種となることがほとんどだ。稲や麦を対象にした定住農耕を背景としてこそ、土地、不動産、もっと広く言えば領土への関心が、「当然視」されることになるのだ。このコントラストは、このエッセイの終盤で、コンゴ盆地における、狩猟採集民や焼畑農耕民たちへの一方的な収奪を可能にした歴史的事実と大きく関連してくることになる。

Ⅳ.「グローカル化」する世界と民族誌

それぞれの生業と、それにもとづく価値観のなかで暮らしてきた諸社会も、そのままのかたちで生業を営んでいるグループは、現在では地球上には存在しない、といっていい。「多様な生」のかたちを襲った変化の主たる要因はいうまでもなく、近代化であり、「グローバル化」である。
「グローバル化(globalization)」という言葉が、「国際化(internationalization)」に代わってよく用いられるようになったのはだいたい1980年代のことである。これは現在でも一般的には似た用語、あるいは相互置き換え可能な用語として流通しているが、厳密にいえばその含意はかなり異なっている。
より正確な意味での「国際化」はなによりも近代化の産物としての「近代国家」をその基本としている。近代国家とは、国境、主権、領土を有する存在である。その国家同士の関係や往来を公式的に密にしよう、というのが直接的な意味としての国際化である。ところが、「グローバル化」においては、人・物・資本・思想・文化・情報などが国境を近代国家間の合法・違法を問わず往来・流通する規模と速度に強調点がおかれている。

この地球(グローブ)の上にいる以上は、近代化、「グローバル化」の波から逃れることなどできない。それでも「グローバル化」の結果、全てが混ざって等質になるという一時期の予想に反して、この一見化学反応のように見える往来・流通には選択性がある。こういった現象を「グローカル化」と呼ぶこともある。地球上で人・物・資本・思想・文化・情報などのフロー(flow)が高速度で飛び交い、普遍をめざすつよい流れのなかで、「土着化」「読み替え」などがあちらこちらで顕在化し、地域性(ローカリティ)が際立ってくる傾向があるのは、また厳然たる事実である。さきのウガンダの例でいえば、異なる生業をもつ集団が異なるかたちで「牛の価値」を認識し、殺人事件に異なる解釈をみいだすように、生業に由来するローカルな価値観は現在でも健在である。そうしたローカルな価値観と普遍をめざすグローバルな価値観がせめぎ合う現場は、あちこちで見ることができる。そうしたせめぎあいをとらえるのは、「国際化」とちがって非公式な部分をふくむだけにやっかいだが、「民族誌」的に考えることで見えてくる側面がある。そのことにより、世界はより立体的に見えてくる。今まで見せてくれなかった顔を見せてくれる。グローバル/ローカルの弁証法的な過程でどのような社会にどのような問題が顕在化するのか、具体的な例にもとづいて考えてみたい。

本来は実地に体験してそれぞれの文化的他者の住む環境を描き出すのが「民族誌する」ことであり、その成果として刊行された出版物も膨大にあるのだが、この一連の論考では、比較的入手しやすいドキュメンタリー映像を「民族誌」的に読み解くことで、この課題にこたえていこう。
「民族誌」の記述の技法のひとつとして「羅生門」が取りあげられることがある[註5]。黒澤明の映画に由来する技法で、複数の視点と解釈を可能にする方法である。社会には複数の立場が異なるアクターが関わっているので、この方法には一定の合理性がある。ドキュメンタリーの多くは、観る側の「わかりやすさ」を優先して、単一の立場で、わかりやすい政治的メッセージのもとに編集されていることが多い。ドキュメンタリーを「民族誌」的に読み解く場合、編集者、制作者の意図をいったんかっこにくくって、「羅生門」風に解釈していくことが必要である。ときにはドキュメンタリーのなかでは「悪玉」として扱われている立場に自分を擬してみる、そういう読み方が必要だ。映像の世界での方法が「民族誌」的な描き方の技法として定着し、また今回はそれを映像の解読に流用する。何か方法が環流するようなアイロニーがある。
[註1]安積・尾中・立岩・岡原[1990]。本論のもととなった慶應義塾大学通信教育部が開講した2012年の大阪総合講座の総合テーマとされた。
[註2]端的には、Profileを参照のこと。
[註3]これは、活字にはなっていないが、あちこちで言及される伝説である。例えば、長島[1982a]、吉田[1982]、中川[1992a,b]。オリジナルはNeedham[1975: 368]。
[註4]長島信弘の造語。長島[1982b、1983、1987]参照。また、その理論的展開については浜本[1989]。とくにE.H.カーの紹介する「ロビンソン事件」を引いて説明が有意なものとしてつくりあげられる過程についての指摘は重要である[浜本 1989: 74-80]。
[註5]オスカー・ルイスの所論[ルイス 1970]などを参照。

焼畑農耕民「ヤノマミ」と狩猟採集民サンの「秘密」

Ⅰ.それは「人間」という意味だ

NHKスペシャル(2009年放送)「ヤノマミ―奥アマゾン、原初の森に生きる」(以下「ヤノマミ」)は疑いなく傑作だった。森で生まれ、森を食べ、森に食べられる。彼らの世界は森からすべてを得る。出産も森のなかで行う。彼らが通常食べる野生動物は、彼らの先祖の生まれ変わりだと、偉大なシャーマン、シャボリ・バタは説く。しかし、それを殺し、食べよ、と。人間は誰も死んで精霊となり、精霊も死んで虫となり、やがて無となるという輪廻にも似た世界観をシャーマンは提示する。

テレビのドキュメンタリー番組として企画、撮影された映像であり、厳密な意味では民族誌でも、民族誌映画でもないが、その手法は、人類学者が民族誌を作成するときのものに準じている。映像の持つ力は、ときに文字のそれをはるかに凌駕する。ここでは、若干の民族誌的事実を補足しつつ概観する。

Ⅱ.ヤノマミの生活―焼畑と狩猟採集

ブラジルとベネズエラの国境付近、アマゾン川の支流ネグロ川とオリノコ川上流域に住むヤノマミは、人口推計約28,000人。人口は少ないがひとつの「民族」と呼びがたいほど集団間の偏差が著しいことで知られている。現在の彼らの生業はプランテーン(料理用バナナ)やマニオク(キャッサバ)などの焼き畑農耕が主で、狩猟採集は従だが、映像で描かれるのは主に狩猟採集の世界であり、狩猟採集にねざす価値観も丁寧に描かれている。

狩りのたびに遠征に出かけ、キャンプを張る。年齢による責任の軽重、男女の分業はあるが、階級はなく、獲物は平等に分配される(別の民族についての調査報告によれば、狩りに参加しなかった場合にも分け前があるともいう)。子供にも応分の分け前が与えられる、ということは、親に保護者としての責任が集中しない結果を生んでいることが容易に想像され、事実映像のなかでも西洋近代ではなじみ深い母と子供とが他の関係に比べて特別に密着した光景はあまりみられない。
取材班が住みこんだのは、ワトリキ(「風の地」)と呼ばれる場所である。彼らはそこにシャボノと呼ばれる円い住居を建設し、シャボノのなかの38 の囲炉裏を囲んで169人が一緒に住んでいた。そのうち18人が、植物から採取した幻覚剤をもちいてトランス状態となり、神霊と交信するというシャーマンであった。

グループを率いていたシャボリ・バタはこれまでの生涯で19回の移動を経験しているが、紆余曲折を経てワトリキに住みついてからは約10年間にもなるという。ワトリキの169人のうち約100人がシャボリ・バタと何らかのかたちで親族関係をもっている。
一般に狩猟採集民は数家族、あるいは数十家族の連合でバンドと呼ばれる社会組織を構成して暮らす。資源、すなわち野生の動植物の多寡により離合集散し、バンドはそのサイズを変える。焼畑農耕民であるヤノマミは、専従の狩猟採集民と比べると、ある程度の定住性をもっているようだが、7つの家族をコアにして38の家族が連合する家族形態はよく似ている[註1]。
主であれ従であれ現在地球上で狩猟採集生活を営む人びとは、砂漠か熱帯雨林に追いやられて住んでいる。近代社会とも無縁ではありえず、大きな影響を被っている。ヤノマミの場合、国境沿いの豊かな熱帯雨林が開発を免れ、近代化の波の直撃を避けるように暮らしている。その意味では、森の近代化からのシェルター、既存の生活の擁護者としての意味はますます大きなものとなる。

Ⅲ.生命倫理を問い直す

番組で焦点を当てられる少女は14歳で妊娠し、45時間に及ぶ長い産褥のあげく生まれた新生児を、人間として迎え入れることはせず、「精霊のまま森に帰した」。この作品のクライマックスである。若くして、結婚せずして妊娠すること、この社会には避妊や中絶手術がないのだ、という驚き以上に、新生児の殺害、というショッキングな現実に直面して、胎児と新生児の違いこそあれ、「中絶」というかたちでわれわれの社会で類似のことが行われていることからふだん目をそらしていることに気づかされる。このことは、われわれに生命倫理を再考することを余儀なくさせる。「生命は地球より重い」という価値観が決して普遍的ではなかったことをあらためて私たちに教えてくれ、「ヤノマミ」の字義通りの意味、「人間」とは何か、について考えさせられる。ヤノマミとは「人間」のことであり、外部の者はナプ(ヤノマミ以外の人、あるいは人間以下の者)と呼ばれる。

しかし、価値観が相対的だとしてもなお、考えるべき疑問は残る。少女は何ゆえわが子を「精霊のまま森に帰す」ことを選んだのか。一般的にこういった社会では育児は母親あるいは両親だけの負担となることは少なく、共同体全体で育てる傾向がある。映像のなかでも少女が誰かの幼児をあやす様子が何度も描かれている。(むしろ現代日本との差異として強調して)説明されるように、この社会では14歳で未婚のまま妊娠・出産もふつうのことで、出産を決めたとして少女が例外的な困難に直面することは想定しづらい。少女の両親も「娘が決めることだ」と判断をゆだねている。おそらく社会の側の協力体制は十分期待できる。ひとたび生んで、「人間として」迎え入れてしまえば育てることにひどく苦労することはなさそうなのだ。だから少女の判断の決め手は日本の大人の事情のような、「経済的事情」とか「世間体」などではない。
ヤノマミをめぐるいくつかの論争で主役のひとりだったナポレオン・シャノンの報告によると(彼の研究は倫理上のさまざまな物議をかもしているが、ここではそれは措く)、近隣のグループとの紛争状態が常態化しているヤノマミでは、戦闘に役立たない女性は、社会のなかでの評価も低く、新生児が女児であると殺害する傾向にあるという。シャノンは否定したが、マーヴィン・ハリスなど一部の研究者はもっと進んで生態系維持のため、と結論づけようとする。自分たちの蛋白源であるサルやアルマジロの生態系をおびやかさないために、新生児を殺すのだという。70年代にさかんだった「蛋白質論争」である[註2]。

Ⅳ.「ブッシュマン」の「秘密」

ブラジルの不法な金採掘業者(ガリンペイロ)との厳しい闘いは現在でも時折報じられるし、外部から持ち込まれた病気による被害も被ったようである。それでもヤノマミは、1991年には先住民保護区に指定されたという外的条件にかなり依存しながらのことではあるが、一万年続くともいわれる、昔ながらの生業を維持している姿をスクリーンに示すことができた。しかし、多くの場合、「グローバル化」は、それを不可能にする方向に働く。

アフリカの南アフリカに住む狩猟採集民サンの例をみると、「グローバル化」がいかに多くの民族の生活の犠牲のうえに成り立っているのかをあらためて考えさせられる。2006年レハド・デサイという南アフリカのジャーナリストが作成したドキュメンタリー映像、「ブッシュマンの秘密」(原題:Bushman’s Secret、制作:Rehad Desai (南アフリカ)は、このことを暴き出す。このドキュメンタリーは「ヤノマミ」とは異なり、いかに民族誌上の「多様な生」が不可能になっていくのかを描き出す。「ブッシュマン」は「藪の人」という差別語であるとか、女性を無視しているという理由から使用を回避する動きがある。近隣民族からの呼称である、「サン」の使用頻度が増しているが、この語をもちいる近隣の牧畜民、コイコイにとっては、「われわれとは異なる者」「家畜をもたない者」「無宿の浮浪者」「ならず者」「どろぼう」などという含みがある、ともいう。

映像は、「フーディア」という植物を中心に展開する。これを主要な原料とし、その名を冠した商品は、副作用のないダイエット食品として世界的に流通し、現在日本でも容易に手に入る。フーディアは、ガガイモ科の多肉植物で、見た目はサボテンによく似た、苦みのある植物だ。13種類ほどあるフーディアのほとんどは、ナミブ砂漠に分布しているという。
かつてその地域に暮らしていた「サン」たちは、食欲を抑制するフーディアの一種、フーディア・ゴルドニー(Hoodia gordonii)を食料の少ない乾期に食べて飢えをしのいでいた。その食欲抑制効果に目をつけた科学者や食品会社が、それを製品化し、巨大なグローバル・ビジネスに成長させた。南アフリカの科学・工業研究評議会(CSIR)は、フーディアから食欲抑制効果をもつ成分P57を抽出することに成功し、特許を取得した。CSIRは、かたちばかりの特許条約をサンの代表と結ぶ。ところが、ジャーナリスト、デサイによれば、その時にはすでに、CSIRは、特許の使用権を、海外の製薬会社(映像ではユニリーバ社しか紹介されないが、はじめは英国の製薬会社ファイトファームに使用権を与え、ファイトファームはファイザー製薬とユニリーバに実施権を売却した。)に譲渡していたのだ。CSIRの科学者はもちろん、南アフリカ政府の政治家も、先住民保護に力を尽くしている運動家も、知的所有権の侵害をある程度認めながらも、商品としてグローバル・ビジネスにするためには、海外資本の介入はやむを得ない、と口をそろえる。
しかし、とサンのリーダーのひとり、デビッド・クレイペルはいう。「太った人間がやせるために払ったお金は、われわれのものだ」。

映像資料にも登場する南アフリカの弁護士ロジャー・チャネルズが、「謝礼もはらわずに伝統的知識を利用することは、バイオパイラシー(biopiracy:生物資源を盗むこと)である」とCSIRとファイトファームを訴えたことに、この問題は端を発している。2010年10月18日(月)から29日(金)に名古屋で行われた生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)でも、重要な議題のひとつとなっていた。その時点ではすでに、ユニリーバ社もファイザー製薬も、事業から撤退してしまっていた。効力を充分に証明できず、割に合うビジネスではなくなったからである。

現在ではカラハリ砂漠でのフーディアの伐採料は、サンの団体に支払われているが、製品の生み出す利益との著しい格差からその額の妥当性が常に疑問視される。違法採集もあとをたたず、現在全米などではこの名前を冠したおびただしい量のサプリメントが流通しているが、ほとんどは偽物といわれている。

Ⅴ.奪われたのは「知的所有権」だけか

映像では、サンの知的所有権を問題の中心にしているが、皮肉なことにCSIRの科学者はもちろん、政治家も、先住民保護運動家も、画面に登場するのはすべて白人で、ポストアパルトヘイト後の南アフリカとはいえ、国の中枢は白人がキャスティングボードを握っていることに遠因がありそうにみえるつくりになっている。比較対象となっているのが1990年に南アフリカから独立したナミビアのサン(ここには南アフリカでは失われてしまった、トランス・ダンスの伝統も残っている)だからとりわけそうみえる。南アフリカのサンは住んでいた国立公園から「再定住化政策」で追い出されてしまったが、ナミビアのサンは国立公園内に住み、入猟料を得て、国立公園内の、生物資源を自ら商品化して生計の足しにしているのだ。彼らはグローバル化に適応して、それなりのビジネスを成立させることに成功したようにもみえる。しかし、知的所有権をめぐる闘争とおなじく、自分たちのつくった土俵ではないところでしか勝負できないアイロニーが透けてみえる。随所でみられるように、観光客の相手をすることやちょっとした手工芸品を土産物として売ることで日銭を稼ぎ、生業であるはずの狩猟採集はおもてだって映像には登場しない。知的所有権どころか、移動を旨とする狩猟採集民には土地所有の発想は本来的にはないかきわめて乏しいが(彼らの土地に対する執着のなさは征服者にとっては好都合だったであろう)、アフリカ大陸最初の住人と目されるサンにとっては、国立公園どころかアフリカすべての土地は本来彼らのものだったはずなのだ。

(オランダ系アフリカーナーも先住権を主張する現在、アフリカの先住権問題は複雑だが)一七世紀以来の南アフリカへの白人の進出と土地の収奪、仕掛けられた戦争、持ち込まれた疫病など、サンの人びとがこの四世紀ほどにこうむった剥奪の歴史を顧みると、もうこの問題は解決不能なほとんど絶望的とさえいえるものに思えてくる。「ヤノマミ」が生命倫理に反省をせまるとすれば、サンを翻弄したさまざまな歴史はひろく西欧近代が旗印としてきた「人権」、もっといえば「人間」の概念に大きく反省をせまるものである。
COP10の開催母体である生物多様性条約(CBD)には、2010年5月現在、EU含め193カ国が加盟しているが、クリントン政権時に上院で批准されず、いわゆる先進国では唯一、アメリカは加盟していない。いろいろな理由はあるだろうが、ここでは大雑把な背景だけ述べると、先住民の権利を求める議論では、極端な場合、権利状態を「大航海時代の前に戻せ」というところからはじまる。そういった前提に立つと、現在のアメリカ合衆国のほとんどのよって立つ成立基盤は危機にさらされてしまう。格好のいい「西部劇」も、「フロンティア」という言葉も、別の景色からみると剥奪や略奪という別の言葉に置き換えられる。

1652年6月、ヤン・ファン・リーベーク率いるオランダ東インド会社の一団が喜望峰に到着したとき、遭遇した先住民(コイコイ)は、自らを「コイ・コイン」と名乗ったという。人間のなかの人間、真の人間、という意味である。
近代人というのはヤノマミの言うように、「ナプ」(人間以下のもの)なのではないかと考えさせられる[註3]。
[註1]取材についての資料は、国分[2010]による。
[註2]蛋白質論争については、ハリス[1990]とそれに対するキージング[Keesing 1981]やサーリンズの批判[サーリンズ 1982]、批判への反論[Harris 1984]を参照。シャノンの資料はChagnon[1983]。
[註3]ブッシュマンについては田中[2001, 2004]などを参照。

牧畜民ヒンバの苦悩とナミビアの電力自給率向上政策

Ⅰ.牧畜民ヒンバの「赤土と水」

ナミビアに暮らす狩猟採集民サンは、国立公園から追い出されることはなく、公園内で比較的自由な生活をしていた。移動は制限されているから生業だった狩猟採集こそ形骸化しているが、公園の入猟料もいくばくか入っていたようでもある。自らの努力で国立公園の野生植物デビルズ・クローを商品化するなど、南アフリカに住むサンの集団に比べると自立した暮らしが営むことが出来ているようだった。
しかし、同じナミビアという国家が、異なる動機をもって別の集団の生業を抑圧しようとする例を「赤土と水」(原題:Ochre and Water クレイグ・マシュー監督、オフ・ザ・フェンス制作、オランダ、2001年作品)のなかに見ることができる。

牧畜民ヒンバは、ナミブ砂漠に悠然と流れるクネネ川流域に住んでいる。人口は約18,000。アンゴラ側にも9,000人ほど住んでいるという。両岸には、彼らの先祖代々の墓地もある。牧牛をはじめとする家畜の水と牧草を供給するクネネ川には、美しいエプパ滝がある。ナミビア政府は電力の自給率を上げるため、ここカオコランドにダムを建設しようと計画しているのである。簡単なヒアリングが行われたようだが、カオコランドの首長、カピカ、予言者カチラなど、映像資料に登場するヒンバたちの答えははじめから決まっている。ダムが出来れば、ロンドンに匹敵する面積の土地が水没する。ヒンバが家畜とともに暮らす牧草地はすべて水没してしまうのである。ところが政府は海外のコンサルタントに委託して、ダム建設準備のための実地調査を開始してしまう。

若者たちは近代的な機械に興味を覚え、現金収入を得るためにその調査団の工事を手伝う始末である。牧畜民の場合、権力と富の象徴である家畜は、年長者に構造的に集中する。結婚や葬儀などあらゆる社会的場面で家畜が必要とされる。二重単系をもつヒンバの場合、母系クランを通じて牛などの財産が相続されるが、若者は財にも権力にもアクセスできない。現金収入というのは、この社会では抑圧されていた若者の目には魅力的に映っただろう。一気に別次元の力を得ることができるマジックである。教育やその他の近代的な文物にアクセスするためにキリスト教に改宗する者も増えた。伝統的な生活を捨てる際に象徴的なのは、日焼け止めと、装飾のために体や衣服に塗った油を混ぜた赤土を、洗い流すことである。映像でもキリスト教に改宗する儀礼の場面でひときわ象徴的に演じられる。「赤土」は伝統的な暮らしの象徴でもある。
ヒクミヌエ・カピカ首長とその一族は、その居住地であるカオコランドを訪れた事前調査団を案内し、民族にとっての祖先の墓地の重要性を説き、ヤシをはじめとするカオコランドの食用植物が生活に欠かせないことを説明したうえで、その地が水没してしまうダム建設計画には反対を表明していた。首都ウィントフックでの会議に出席し、国の代表やコンサルタントに反対の意向を無視して実地調査が開始された理由を直接ただしても、外国のコンサルタントは当惑するばかりでらちがあかない。オプウォでの現地説明会では、政府副大臣は、「どこにダムをつくるかを議論しているのであり、つくるかどうかの議論はもう終わった」と公言する。

Ⅱ.電力と水の受益者は誰か

政府高官は、「安定した電力供給で町に明かりを灯し、水を供給するためにもダムが必要だ」と説く。近代主義と近代的生活にどっぷり浸っているわれわれはうっかりするとそれは仕方ないのではないか、と思わされそうになってしまう。電力はわれわれの生活では「ライフライン」と呼ばれ、止まってしまうとみんな困る、という考えが染みついている。アフリカ諸国の場合、これらが完備されているのは、首都を中心とした都会のホテルや官公庁などである。自宅に電気が通っているのは、限られた富裕層、高級官僚や一部の富裕層、海外からの外交官、あるいは開発関係の仕事で派遣されてきた外国人だけである。一流ホテルでぱりっとした制服を着てコンシェルジェやバーテンをしている人でも自宅には電気がなくて灯油ランプで暮らしていたりする。だから、ダムが完成し、安定した電力供給が可能になっても直接受益者となるのは、ナミビア国民としては例外的なほど、すでに結構な暮らしをしている人々だけなのである。牧畜生活をしているカオコランドのヒンバたちは、もともと電力供給や水道の受益者には想定されていない。

牧畜は潜在的に広大な土地を必要とする。ある程度のサイズの群れを一定期間特定の場所で放牧すると、草は食べ尽くされてしまう。そうすると、彼らは別の牧草地に移動しなければならない。牧草と水場にはある程度あてがあり、群れとともに比較的パターン化した移動をする。この点が野生動物を追って移動する狩猟採集とは移動の様式が異なっている。ヒンバはカオコランド内のいくつか心当たりの牧草地を転々としていて、最初に草を食べ尽くされた牧草地に草が生えそろったころに帰ってくる。だから、群れとともに去った後も彼らは牧草地を別に放棄したつもりはない。また草が生えて放牧できるのを待っているだけなのだ。

予言者カチラは思わず呪詛の言葉を口にする。「ダム建設に賛成した者は、覚悟するといい、その者の墓は見つからないだろう。もし私の死んだとき、ダム建設が決まっていたら、私の遺体は埋葬せずに燃やしてほしい」と。土葬があたりまえのヒンバにおいて、遺体を燃やす、というのは、自らの遺体を毀損させることで日本風に言えば「成仏」することなしに、恨みを残した死霊として祟りをなそう、ということだろうと想像される。予言者の呪詛の言葉だけに、かなり重みがある。

Ⅲ.国際ジャーナリズムか環境保護団体の傀儡か

カピカ首長は、ストックホルム、ロンドンなどへ出かけ、国際的なジャーナリズムを通じてヒンバの窮状を訴える。ナミビア政府も、いわゆる「国際社会」の圧力には抗しがたかったのだろうか、作戦は成功し、政府のダム建設の計画は凍結される。映像の最後のシーンはカピカ首長の父の祖霊をしのぶ追悼儀礼の模様である。葬儀の際の儀礼のダンスのみごとさと彼らの歌の高い音楽性には目と耳を奪われる。ヒンバの牧畜民としての労働歌は、意外なことに(おそらくは撮影協力のNGOが持ち込んだ)バイオリンなどとうまくハーモニーを奏でながら、全編ところどころに挿入されている。ここでも何があっても伝統的な生活を守るのだ、という意思表示を効果的に演出する。建設計画が凍結した時点で映像はおわるので、すっかりヒンバに感情移入させられてしまったわれわれは一応安堵させられる。しかし、ことがここで終わるわけではない。

2009年には南アフリカ環境アセスメント研究所(SAIEA: Southern African Institute for Environmental Assessment)による環境インパクト報告が出された。このレポートの調査も、エプパ滝とベインズ山脈という建設候補地におけるシミュレーションであり、どこにつくるか、という観点からの調査でしかない。調査報告を受けて2012年、ナミビア政府はアンゴラ政府と共同でベインズ山脈にオロカウェ・ダムの建設計画を打ち出した。ヒンバの首長たちは、同年1月と2月、アフリカ連合(AU)と国際連合人権高等弁務官事務所(OHCHR)に向けて、「ダム建設反対宣言」として人権侵害を訴えた。11月23日と25日にはヒンバと近隣民族ゼンバが、オプウォなどで数百人規模の反対デモを行った。これらの宣言やデモの状況は、インターネットを通じて映像とともに世界的に流通し、その今後の動きが注目されている。問題の根っこにあるのはナミビアの人口の50パーセントを占めるオヴァンボの利権の独占である、と指摘するものもある。オヴァンボは伝統的な王国を持ち、象牙の輸出で栄えた過去も持つ。独立の原動力であった「南西アフリカ人民機構」(SWAPO)を結成したのもオヴァンボを中心とするグループであった。
見逃せないのは、カピカ首長たちを海外へ連れ出したのは誰で、その目的はいったい何か、ということである。自らの生活がかかっていない、海外に拠点を置く環境保護団体が「美しいエプパ滝」の自然を守るためにカピカ首長を傀儡として操っているとすれば、ややわれわれの見方も変わってこようというものだ。ダム推進派はじめとするオヴァンボ中心の政府と、ヒンバらダム建設反対派、というナミビア国内の単純な図式ではとらえられそうもない。

ナミビアは24年間ものゲリラ戦を経て1990年に独立するまで実効支配していたかつての支配者、南アフリカに、輸入電力の95パーセントをやむなく頼っている。政府としては、経済的に自立するために現在は20パーセントとされる電力自給率をすこしでも向上させたい。そのためにいくつもの手を打っているが、その一つがダム開発なのであった。
ナミビアのウラン埋蔵量は世界埋蔵量の5パーセントとも八パーセントともいわれ、ウラン産出量が世界第三位、露天掘りのウラン鉱山としては世界最大規模のロッシング鉱山を擁している。その豊富な資源を活かし、2018年までに原子力発電を実現するのがナミビア政府の計画である。ロッシング鉱山を事実上所有するリオ・ティントなどの多国籍グローバル企業や、イランなど資本の影も見え隠れする。また、2011年からは風力発電開発事業が進められており、韓国などが参入している。政府は自給率向上のために、原子力、風力など多岐にわたり可能性を模索している最中であり、介入しつつある資本もオーストラリア、イギリス、南アフリカ、韓国、日本、イランなどまさにグローバルである。リスクは政府も充分に感じているだろう。ヒンバに対しては絶対的な権力者にみえる政府も、グローバルな資源の争奪戦でキャスティングボードを握ることができるかはわからない。モザンビークのカオラ・バッサ・ダムを事実上所有していたポルトガルの撤退もあって(ポルトガルの経済不振の影響が大きい)、南部アフリカの電力事情はいま激しい変化にさらされている。

こうしてみるとナミビア政府が取り組む自給率の改善努力も、近代国家として本当の意味での独立をかちとるための努力であるともいえる。手を叩いて賛同はできないまでも充分理解できるものである。ダムはこうしたグローバルな利権争いのなかのひとつのあらわれなのである。

Ⅳ.テリトリーも墓も近代化の産物、だとすれば

ヒンバの人びとは「先住民の権利に関する国連宣言」第4条などにもとづき、「カオコランド」の土地所有権と自治権など、「先住民」としての人権を主張している。家屋敷や放牧地、水場、畑とともに祖先の墓が水没してしまうことをダム建設の大きな反対理由としてあげていた。映像のなかでも、牛の頭蓋をいくつも重ねて死者の追悼モニュメントをつくる場面が印象的にうつしだされる。しかし、あのモニュメントのように凝った施設を、牧畜民がつくるのは珍しい。

アフリカの多くの「遊牧民」(nomad)の間では現在でも家畜争奪が頻発している。家畜に至高の価値をおき、その争奪戦に血道をあげる牧畜民には、どの国も頭を悩ませている。かつての槍にかわり現在ではライフル銃を携行していることが多いので、争奪戦もその鎮圧も近代戦である。彼らは神出鬼没であり、鎮圧をめざして派遣された政府国軍が彼らに翻弄されることも珍しくない。彼らは土地を知り尽くしているが、どこか特定の土地に依存するようなこともあまりない。家畜の保全に必要とあれば、場所は棄てていつでも移動する、それが「遊牧の民」の生き方なのである。少なくとも彼らにとり、主な関心は家畜であり、土地やテリトリーではない。土地にはあまり執着はないはずなのだ。彼らが歴史上移動を繰り返してきたのもそのためだった。

祖先の墓についても、同じような推測がなりたつ。カラハリのサンは、狩猟採集民ゆえに移動を繰り返し、誰かが死ぬとその死をもたらした悪霊を恐れ、キャンプを移動するのが習わしだった。したがって常設の墓地はなく、祖先は祭祀の対象になっていない。牧畜民も頻繁に、そして広域に移動する集団は、常設の墓地は通常はもたない。カオコランドにおいて墓が死者の権力や社会的地位を誇示する施設となり、その装飾や素材が華美に変化したのも19世紀後半以降のことであるという[註1]。

「カオコランド」をはじめとした10の「ホームランド」という行政区分は、1968年「オデンダール計画」という当時実効支配していた南アフリカの統治政策の一環で制定された。牧畜民の移動を制限し、居留地に押し込めようとするものだ。ホームランド内には多数のヘッドマンを任命し、統治のツールにしようとしてきた。最近の民族誌的研究によると、ヒンバたちの放牧の移動範囲が近年きわめて狭くなる一方で彼らの自分たちの土地の所有権、利用権に対する執着が著しく増大しているという。それは、こうした南アフリカの一連の統治下で強化されたものであるとの見方が強まっている。ヒンバが所有権を主張する「カオコランド」は、南アフリカが統治のために制定したカテゴリーであり、彼らがナミビア政府に認めさせようとする代表者の多くは、かつて南アフリカの統治下で任命されたヘッドマンたちである。「先住民」の名のもとに独立前の支配者の遺産を、ともに苦労して独立をかちとったはずの政府に認めさせようとする、アイロニカルな要求だ。しかも先住権、人権という「近代」の用意した土俵で戦わざるをえないという二重の意味でのアイロニーがある。

Ⅴ.国家をこえたグローバル資本のエージェンシー

ヒンバが現在のカオコランドに住みはじめたのは約200年ほど前であると推測されている。16世紀なかばごろにザンビア南部からアンゴラを経てクネネ川を渡り、現在のカオコランドに入ってきた。狩猟採集民サンなどとの関係でいえば、ヒンバはあきらかに後住でもある。「権利」自体も、いつを起点にするかにより微妙な判断が可能なのである。現実問題として大航海時代前には戻せないのだ。話をナミビア国内だけにくぎってみれば、暫定的な判断はできる。「多様な生」を考えたとき、政府主導の開発計画がもたらすものは、その抑圧となることは間違いなさそうだからである。カオコランドが実際には南アフリカの統治政策により設定されたものであろうとも、すでに現在、ヒンバはその歴史的に限定された範囲で、主体的に生業を営んでいる。彼らは、「万一ダムが建設されたら、われわれの多くは自らダムのなかで溺れることになるだろう。その他の者は、抵抗の戦いをはじめる。」と抗議する。

しかし、環境保護団体の支援を背景にヒンバが「所有権」という近代の産物を声高にふりかざすとき、近代国家の枠を超えたグローバルな資本の関心とエージェンシーに翻弄されそうになりながら独立後の近代国家運営に苦しむナミビア政府の言い分とどちらに投資したらよいのかは、微妙な問題になってくる。グローバルな資本のエージェンシーは、国家の枠を超えてより「多様な生」を不可能にする方向に働くだろうからである。ヒンバのサポートをする環境保護団体自体はどうあれ、そのスポンサーとなっているグローバルな資本にも、何らかのわかりやすい「近代的」打算があるだろうことは容易に想像がつく。資本に人情はないのだ。この観点からは、ふつうはポジティブな意味で使われるグローバル・スタンダード、という言葉も生権力の様相を帯びてくるはずである。

アフリカ各地の地下資源をめぐって地球規模の利権争いが続いている。公には否定されているがナミビアから核開発を進めるイランへウランが極秘裏に流れている、との噂がたったこともある。国際社会を構成するそれぞれの国が自国の国益を掲げてどのような介入をし、グローバルな資本が国の枠をこえてどのようなエージェンシーを発揮するのか、私たちは知っているつもりであった。ダイヤモンド、コルタンなどが紛争の種として一部の注目を集めているが、めざましい解決策は出ていない。その背景にどれほどの人びとの暮らしが踏みつけになることか。
スウェーデン政府が、ヒンバを自国のトナカイ牧畜民サーミと同列に考えて、その生業をユニークなかたちでサポートしていると聞く。いわば国内問題として、牧畜民との共生がかねてから課題となっていたラップランド、スカンディナビア半島にある北欧ならではの対応なのであろう。今後の動向を注目したい。

いいふるされてはいるが、電気を通したり、井戸を掘ったりということばかりが開発ではない。幸いヒンバは歴史的に限定されたかたちではあるが、その生業を維持したい、という明確な意思表示をしている。歴史的経緯もふまえたその土地の、地域のかたちにみあった、「いま、ここ」にフィットした開発がありうるはずである。現在の生業の可能性を全うしうるような格好で、グローカルな開発援助の成果がみてみたい。
[註1]吉村[2004, 2006]、Bollig[1997]参照。

コンゴの「ステルス紛争」をめぐって

Ⅰ.誰でも持っているコンゴの産物

「このなかのほとんどの方がコンゴ民主共和国で産出されたモノを持っているはずです。さて何でしょう。」

教室でこう質問すると受講生たちにかなり驚かれる。多くの日本人にとってアフリカは、遠い。ニュースで540万人という、大戦後最大の犠牲者を出している―このことはたとえば大学生にはあまり知られていない、という資料もある―「コンゴ内戦」の名前は聞いたことはあっても、遠い世界の出来事なのだろう。私は10年ほど前から同じ質問をすることにしている。後に見るようにこの問いが10年間も通用してしまっているのは非常に残念なことである。正解は「携帯」あるいは「スマホ」である。もちろんPCも正解。正確な言い方をすれば、それらのなかの部品、コンデンサーの原材料であるレアメタルがコンゴ産で多くを占められているのである。レアメタルの鉱石としての名称は、コルタン(Columbite-Tantalite)。精製してタンタル。

Ⅱ.「紛争鉱物」タンタル

タンタルの導入は、携帯やスマホ、あるいはPCの小型化を可能にした。CPUに安定した電流を供給するためのコンデンサーの性能をそのままに、それまでのアルミ製の60分の1の大きさと重さを実現したのである。全世界のタンタルの総埋蔵量の80パーセントがコンゴ民主共和国にあるという。日本では2006年が最大輸入量で399トン。2012年にも256トン輸入している。
1900年ごろ、カタンガ特別委員会(CSK: Comité spécial du Katanga)が、グレート・リフト・ヴァレーの活動により地下の鉱床が地表付近に押し出されたコンゴ盆地が、カッパーベルトに代表される豊富な地下資源の宝庫であることを発見した。「地質学上の奇跡」と呼ばれるカタンガ州はそのひとつである。

銅のほかコバルト、スズ、タングステン。1960年の独立前のコンゴ自由国時代(1885―1908)に特別委員会は土地開発を1900年から向こう99年間委託されていたが、その開発利用をさらに拡充するために「ユニオン・ミニエール」が設立された。ドル箱だった「ユニオン」の接収はベルギー領コンゴ時代(1908―1960)にもコンゴ民主共和国独立時にも一大争点となっていた。カタンガの分離独立をはかる一連の動きは「コンゴ動乱」や「シャバ州紛争」のなかの大きな要因であり、「ユニオン」の利権のゆくえが大きく関わっていた。独立前後からコンゴ動乱までをビビッドに描いた映画に「ルムンバの叫び」(原題Lumumba、ラウル・ペック監督、2000年、フランス、ベルギー、ドイツ、ハイチ作品)がある。映像を注視すると、資源問題は個々人の人物を丁寧に描いたこの映画にも随所にみてとれる。
ときおりこの地域の内戦は「民族紛争」として報じられているが、「民族」の違いによって内戦が起こっているのではなく、利害衝突の単位が「民族」とかなりの程度一致するだけであることが多い。実際は、膨大な地下資源(や象牙などの土地に由来する資源)の利権をめぐる争いなのだ。

地下資源は争奪の対象であるとともに戦争資金として戦争の長期継続を可能にする。資源の埋蔵量がもつ限り、半永久的に、である。はじめは象牙や金だった争奪の対象もやがて、ダイヤモンドが主となる。近隣のアンゴラ、シエラレオネ、リベリアでも「紛争ダイヤモンド」として知られるようになった。このことは「ブラッド・ダイヤモンド」(原題 Blood Diamond、エドワード・ズウィック監督、レオナルド・ディカプリオ主演、2006年アメリカ作品)としてシエラレオネを舞台に映画化されたので比較的よく知られている。
1998年に国連がアンゴラ産の「紛争ダイヤモンド」に着手し、禁輸と制裁を決定して以来、問題は下火になっていた。ところがまったく構図をそのままにしてタンタルをめぐって同じことがおきている。コンゴ産のタンタルの売り上げが、長引く「コンゴ内戦」の両陣営の軍事資金となっているのだ。反政府軍側の鉱物はルワンダ、ウガンダ、ルワンダなどを通じて世界市場に出回る。政府側の鉱石の販売には、数多くのグローバル資本が関与している。最近では中国の大規模な投資が目立つ。

2001年の国連安保理の専門委員会でこのことが告発された。このタンタルの不正採掘による利益が武装勢力の資金源となっており、ウガンダ内戦、ブルンジ内戦、第一次コンゴ戦争(1996―1997)、第二次コンゴ戦争(1998―2003)を深刻化させ、長期化させた原因となっている、と報告書は指摘する。報告書は2001年のものだが、その後も紛争の事態はあまりかわらない。最近ではヴァージル・ホーキンスが「ステルス紛争」という名称を唱えている。「見えない、あるいは姿をくらました」紛争という含意である。

Ⅲ.「戦場のITビジネス」

ヨーロッパの社交界で「コンゴの王子」を名乗るウィリー・ミシキ氏は、キンシャサの大学とデンマークの大学を卒業したポストコロニアル・エリートの典型である。現地語はほとんどしゃべることができない。コンゴ産の金やダイヤを西洋社会に仲介することで、巨万の富を蓄えてきた。2001年9月放送のNHKスペシャル「戦場のITビジネス―狙われる希少金属タンタル」のストーリーは、当時38歳の彼を中心に展開する。

金やダイヤのビジネスに躓き、大きな財産を失ったミシキ氏。逆の立場から見ると、「紛争鉱物」に対する国連や国際社会が打った有形無形の対策によって彼のビジネスは頓挫したともいえる。映像では紹介されていないがモブツ政権の農業大臣を経験していた。独裁政権の利権を享受する立場にあったとみられる。
ミシキ氏が目をつけたのは、採掘された時の1,000倍の価格で取引されるタンタルを仕入れて輸出するビジネス。巨大なタンタル鉱脈がある北キブ州のワリカレ地域は、当時反政府軍、コンゴ民主連合(RCD)の支配地域とされていた。ワリカレに、かつて存在したというニャンガ王国の王族の末裔をミシキ氏は自称する。
1960年の独立直後の「コンゴ動乱」以来、うち続く内戦により肥沃な農地は荒らされ、かつてキャッサバを中心とした焼畑農耕を営んでいたはずの地域の産業基盤はすっかり崩壊してしまった。

ワリカレの人びとは、露天掘りの鉱山で危険を冒してタンタル採掘に従事して現金収入を得る。その不安定な現金収入に頼るしか、生きていくすべがないように考えるようになっていた。管理もされていない鉱山で落盤は日常的だ。時には山賊と化した反政府軍ゲリラ、あるいは政府軍に襲われて命をおとすものもすくなくない。自分たちが生活の糧にしているその鉱石が携帯電話やPCに使われることすら知らない。
2週間に一度、市場が立つ。そこでは鉱山で採掘されたタンタルや、川で集めたタンタルをもって採掘人が集まる。鉱石はキロ約30ドル程度で仲買人に買い付けられ、仲買人によってキブ湖のほとりブカブの買い付け所に集められる。相場はキロ40ドル。すべてアジザ・グラマーリという人物が社長をつとめる輸出会社の直営である。ブカブから一度旧宗主国であるベルギーの業者のもとに集約され、アメリカかドイツの精製工場に輸出されて製品化されるのである。

国際価格はキロ200ドル。グラマーリ社長は輸出独占権の見返りとして1キロあたり3ドル、ひと月に約100万ドルという巨額の税金をRCDに支払っている。それ以外にも仲買人、採掘人などから鉱山使用料や通行料、鉱石持ち出し料などの名目でその都度タンタルが徴収され、軍事資金として反政府軍を支えている。政府は国連を通じてたびたび抗議しているが有効な手立てはとられていない。グローバル資本からみれば、タンタルはどこでどのように採掘されようが、そのときの相場で値段がつく。
政府軍の敵は国内の反政府軍だけではない。反政府軍を支持するウガンダ、ルワンダ、ブルンジと、政府軍を支持するアンゴラ、ナミビア、ジンバブエなど内戦に介入している近隣諸国も、コンゴ国内に軍を展開し、その実組織的にコルタンを採掘しているのだ、と国連は告発する。コンゴ国内の反政府ゲリラを制圧するため、というのが表向きの理由である。
内戦勃発当初は採掘の対象は金やダイヤだったが、現在はタンタルを主なターゲットとした組織的な採掘が行われ、自国で産出したものとして輸出しているとみられている。ルワンダなどは、自国にタンタルの鉱脈を持たないにもかかわらず、内戦直後からタンタルの輸出額が増え始め、国家予算に匹敵するほどの額となっている。
コンゴの有識者からなる市民団体の独自調査では、ルワンダ軍の駐屯地はことごとく鉱山の近くであり、国境から300キロも入り込んでいる部隊もあるという。

タンタルはRCDを支援しているルワンダ経由で国際市場に出る。国連報告はカガメ大統領を「地下資源のゴッドファーザー」と批判する。
ミシキ氏は事実上輸出の権限を握るルワンダと手を握ることに決め、カザフスタンの軍需工場の技術者とロシアの貿易商からの申し出を受けて、コンゴ国内での精製工場建設へ向けて200万ドルの融資をファン・ブリンク氏に依頼する。ここで、この番組は終わっている。最後に紹介されるのは、国連の委員会報告書の一節である。「この巨大ビジネスの唯一の敗者はコンゴの住民である」と。
映像資料ではフォローされていないが、現在のところ、コンゴに精製工場が建設された、という情報はまだ入ってこない。おそらくは、ミシキ氏のビジネスは失敗したのだろう。すさまじい利益を独占しているアメリカとドイツの精製工場、というよりもそれらを経営するグローバル企業が有形無形の介入を行うだろうことは想像に難くない。彼は2002年6月27日にマネー・ロンダリングを含む複数の容疑によりベルギーで逮捕された。しばらく投獄されていたようだが、彼自身のフェースブックによると最近学位取得。ディプロマ・ミルとみられている大学である。現在はコンゴの名誉大臣を名乗っている。ちなみに、歴史上「ニャンガ王国」が実在したかどうか、私は確認できていない。

Ⅳ.「血塗られた携帯」

全く同じ問題、をテーマに制作された「血塗られた携帯」(原題 Blood in the Mobile, Koncern TV & Film 、2010年、デンマーク)が制作されたのはそれから約10年後のことである。

ジャーナリスト、フランク・ポールセンは、携帯大手メーカー、ノキアの本社に何度も足を運ぶ。件の国連の告発から10年以上もの間、「なぜ対策に取り組まないのか」と社会的責任を問うポールセン。取材申し込みに対して「担当者不在」「部署が違う」「日を改めてほしい」とたらい回しにされ、しびれを切らしたポールセンは、実態をつかむためにコンゴに飛ぶ。
反政府武装勢力がひしめくワリカレの取材に際して、国連平和維持部隊で説明を受けるが、肝心のところは機密。国連の協力は得られず、いくたの困難を(おそらくは賄賂で)切り抜けて反政府軍の許可でワリカレ行きがきまったポールセン。国連の広報官は忠告する。「武装組織だけでなく軍の不正行為も撮影してしまったら、殺される」おそれがあると。

五年前まで無人だったビシイ鉱山周囲には、現在では20,000人が暮らしている。深さ100メートルの坑道に一週間入りっぱなし。毎月落盤で死者が出ている。すねに傷を持つとみえて、騒然とした採掘現場での撮影は混乱を極めた。罵声が飛び交う。もっともポールセンの道案内の少年も、法的には、そこで働いていてはいけない未成年である。

ふたたびノキアを訪れるポールセン。広報担当の回答は2001年から取り組んでいるが追跡不可能。本当は、その気になれば地質学的な産地特定は可能なはずだが、全くやろうとはしていない。CEOには会えず、社会的責任担当のペッカから、業界コンソーシアムでの話し合いと国際社会の対応に期待する、という消極的反応を引き出すにとどまった。一企業でできることには限界がある、と、アフリカの多く国の歳費を上回る収益を上げているこの巨大企業の「社会的責任」担当者は開き直る。資本主義体制では、企業が「国家」をうわまわる権力者になることはしばしばあることなのだが、そのことはむしろ巧みに権力側の当事者からは隠蔽され続ける。
国際的NGO、グローバル・ウィットネスは、むしろサプライ・チェーンの公開を要求する努力をしているというが、なかなか実現は難しい。競合他社との関係もありサプライ・チェーンはいわゆる「企業秘密」なのである。

このドキュメンタリー制作途中で、大きな動きがあった。2010年7月、アメリカで金融規制法が改正されたのである(Dodd-Frank Wall Street Reform and Consumer Protection Act of 2010)。その15条1502項「紛争鉱物開示規則」により、アメリカの証券と関連をもつ企業はコンゴなどの紛争鉱物の使用の有無を米国証券取引委員会(SEC)へ報告する義務が課されるようになった。人々から搾取し、ゲリラ戦の資金源となるルートを使った資源を使ってはならないとの考え方からである。「虐待に目をつぶったまま文明の恩恵を受けることは出来ない」と法案成立に尽力した民主党下院議員ジム・マクダーモットは語る。
こうした動きを紹介しつつも「禁止する法律はなく、保証もない」という文言が、このドキュメンタリーの最後をしめくくる。確かに罰則がない。直接的な歯止めになるかどうかは未知数であり、すでに産地のロンダリングに暗躍している多くのエージェントが存在するとも噂されている。

その後の経過について補足しておこう。法律制定後、しばらくはコンゴ産の「紛争鉱物」を忌避する動きが一般的だった。2011年、モトローラ、インテル、IRM、ノキア、HPなどがホープ・プロジェクト(The Solutions for Hope Project)をたちあげ、DRCからのコンフリクト・フリー(その規準が問題だが)なタンタルの取引がうたわれるようになった。
しかし、なぜコンゴばかりが、このような災禍に見舞われ続けるのか。このことについて一応の理解を手に入れるためにも、また本稿のテーマである生業の多様性について民族誌的に考えるためにも、この地域の歴史をもっとながいスパンで考えてみることが必要である。

Ⅴ.コンゴの前近代をみる

コンゴ川流域、コンゴ盆地一帯の森林地帯は、歴史からは相対的にではあるが、取り残されていた。16世紀から急速に外の文明とのつながりをつよめたこの地域においても、最後の逃げ場所のようなところもあった。ちょうどヤノマミをアマゾンの熱帯雨林がまもっているように、である。
現在この地域の90パーセント近くを占めるバンツーは、現在のカメルーンとナイジェリアの国境付近に由来する。紀元前1000年ごろに移動をはじめ、驚異的な速度で分布域を拡大し、紀元前一世紀にはすでにこの森林地帯に足を踏み入れていた。五世紀に東南アジアから伝わったバナナの導入という農業革命も手伝って、彼らの驚異的な領域拡大に拍車がかかり、ついには森林にもおよんだ。驚異的な生産性は、従来のアブラヤシやギニアヤムとは比べ物にならなかった。

前近代に成立したアフリカの諸王国は、肥沃な農地を背景にした余剰生産物をその経済基盤としていたと考えられている。「サバンナの王国」が、キョガ湖、ヴィクトリア湖、アルバート湖、エドワード湖、キブ湖などのいわゆる大湖地域(the interlacustrine area)や、コンゴ川のような水源のちかくに成立したのはそのためである。コンゴ盆地は典型的な王国の揺籃の地のひとつであった。
14世紀から15世紀に新大陸から伝えられたキャッサバの焼畑農耕は、コンゴ川上流にはルバ王国やルンダ王国、そして河口域にはポルトガルと対等の交易を行ったコンゴ王国をはぐくんだ。この王国は、10世紀から15世紀にかけて繁栄の時期を迎え、驚くほど広域にわたる交易を行っていた。

森林のなかには、狩猟採集民の他、クム、バンボレ、トゥルンブ、バンゲレマ、トポケなどの中央集権制を持たない焼畑農耕民が住んでいた。コンゴ盆地は、森の奥深いところに住む狩猟採集民と焼畑農耕民、そして河川域および湖を主な漁場とする漁労民といった異なる生業を営む人々の共生の舞台となっていたのである。

Ⅵ.「無主地」?の接収

一般に農耕は土地をその生産の基盤とする。農業が主な産業になると、土地所有権という概念が明確に意識化され、それをめぐって紛争が起こる。牧畜社会なら家畜をめぐって起こる紛争が、農耕社会では土地が争点となる。土地はまさに「不動産」だがら、その境界の問題が争われる。

コンゴ盆地の場合には、すくなくとも1884年までは、森林のなか営まれていた焼畑の規模は小さく、耕作地を移動させる移動農業である。土地所有の観念を自発的に厳密化する方向には進みにくかった。ポルトガルも衰退するコンゴ王国に対する関心を失い、アンゴラとの奴隷貿易に興味を示すようになってからは、森林を含むコンゴ盆地の生活は落ち着きを取り戻したかのようだった。ベルギー王に派遣された探検家のスタンレーがあちこちに点在する首長から条約をとりつけたのはこのころのことである。

コンゴ盆地において土地問題、境界問題が先鋭化するのは、皮肉なことに、その地域の問題が国際社会のなかで議論され始めてからのことである。すなわち、1884―1885年のベルリン会議を契機として、コンゴがベルギー王レオポルド二世の私有地として国際社会に認められたときであった。要するに既に「領地」として「不動産」の概念を精緻化し、その権利に敏感だったヨーロッパの一方的な解釈と文脈で法制化にむかったのである。
レオポルド二世は、1885年4月に、それまでのコンゴ国際協会を改組してコンゴ自由国とし、7月に国内の「無主地」を政府の所有地とした。人々に西欧的な意味での土地所有の観念がないことにつけこんだものだった。1896年には、勅令によりベルギー本国の10倍に当たる広大な王室御料地をもうけた。

土地から産出されるものがゴムと象牙から、金、ダイヤモンド、そしてタンタルに変わっても、国有化した土地は人々の手には戻ることはない。そして、この国有化された膨大な土地―EU原加盟六ヶ国と、イギリス、スペイン、ポルトガルがすっぽり入る―と、そこに眠る地下資源をめぐって、またその地下資源の生み出す資本を資金源として、コンゴ内戦は継続されているのである。

スタンレーが各王国と結んだ条約、ベルリン会議の内容、そしてレオポルド二世による「無主地」の接収、1869年の御料地の設置などは、今一度法人類学的な見直しがなされるべきである。冒頭に論じた、「民族誌」で考える見方である。かつて条約が結ばれ、その後破棄もされずに続いていたところに国際的な承認が得られた。国際法上「合法」なのであろう。しかし、「合法」であっても不都合だったり不適切だったりする例―つまり人びとの「生」が犠牲になるような―をここでわれわれは選んでとりあげてきた。それは、その現状を是として追認するためではないことはいうまでもない。

ブッシュマンの例ともヒンバの例とも全く同じように、そこに住んでいた人々の全く知らないところで土地所有権がつくられ、それをめぐって戦争が続いているのである。そして、そのサプライ・チェーンの末端には、われわれ日本人も、上客としてつながっている、というわけだ。間に数多くの見えないミドルマンたちが介在しているとはいえ、私たちがスマートフォンを購入することと、彼らが内戦のための軍事資金を得ることとの間に、意識はしていなくても、因果関係が結ばれてしまっている。

Ⅶ.解のない問題群

この事例には、さまざまなレベルも分野も異なる複雑な問題群が集約されている。立場により、また時間的な経過によって異なる解がみちびきだせそうな、あるいは誰にも―もちろん私にも―絶対的な正解のないようなアポリアである。
私の講義の受講生のリアクションペーパーや教室で提出された論点などから、このような現実をとりあげて、いったいどのような議論がなされてきたか、思うままにあげてみる。
フロアから出される議論のなかには、映像資料の編集者の意図する構図や、事例を紹介する私の意図をこえて意外な登場人物(たとえばドキュメンタリー上は批判対象とされている人物や組織などのアクター)に感情移入して組み立てられた議論もすくなくない。
  • 遠いコンゴ盆地とわたしたちが、サプライ・チェーンで接続されている、という、まさに「グローバル化=地球化」の現実。このことは、植民地主義は終焉を迎えても、南北問題に搾取の関係は温存されていることを示唆する。また、サプライ・チェーンの末端にいるものは、極端な場合最終的な商品には、手が届かない…。

  • 地下資源の有無によって特定の土地へのインタレストが集中する、という現象。また時代によってドミナントな資源は変遷する。しかも、その土地にもともと住んでいた人々には必ずしも利益は還元されていないようだ。所有権や利益配分はいったいどうなっているのだろうか。

  • 「ステルス紛争」の解決の難しさにかかわってくるが、資源争奪の争いは、資源の有効利用には向かわず、資源がつきるまで長期化するという現実…。

  • (ミシキ氏やグラマーリ社長、そしてファン・ブリンク氏など)元手がある資本は増殖する。逆にいうと元手がない層は、とりわけアフリカのような開発途上地域では貧困層から脱出することは難しい。

  • 収益の多寡により低次産業が低迷し、第一次産業が犠牲になる。しかしながら誰かが第一次産業に従事しないと人類の生存は危うい。いきおい、賃金が安くリスクの高いそういった産業には、搾取される側、「貧困層」が押し込められることになる。第一次産業をより魅力あるものにし、「再生」する必要がある。

  • グローバル資本が近代国家のそれぞれの「国益」をはるかに超える巨大な利益を追求する巨大組織となっている。「国益」とその調停をつかさどる国際社会に対する巨大資本の干渉の可能性。利益追求する資本の圧力に屈することがあるとすれば、国際社会の「正義」はいかにして可能になるのか。

  • コンゴの政情を見ていると反政府軍が正規軍になったりして、どちらが正しいのかわからない。ルワンダ大統領カガメの国連嫌いは有名だが、一説には1990年にルワンダ愛国戦線を率いていた際にフランス、ベルギー、ザイールとルワンダ(当時)の連合軍に苦渋をなめさせられたことに起因するという(この戦闘で盟友ルウィゲマが戦死)。内政不干渉の原則からすれば国連はゲリラ戦に勝利した側の支持を後追いでせざるをえないとすれば・・・。

  • メディアはどうして「ステルス紛争」のような深刻な問題にかかわる情報をもっと伝えてくれないのだろうか。とくに東日本大震災以降の大企業のメディアに対する影響力をみると、どれもこれもスポンサーの圧力なのではないかと疑いたくなる。

  • 先住権問題と同じく土地所有の権原について再検討する必要性がある。いつまでさかのぼって権原を考えるのが妥当なのか。そしてどういった経緯でその権原が成立したのか、詳細に見なおす必要性も喫緊の課題としてある。

  • グローバル社会で生き残れる人になれ、といわれる。それは、おそらく、伝統的な生活をまもろうとして搾取される側ではなく、搾取する側に立て、ということなのだろう。「狩猟しなさい」「牧畜しなさい」とはいわれたことがない。「農業しなさい」とも、滅多にいわれない(近年従事者が減っているようで、時折はこういった提言を目にするが)、「ダーウィンの悪夢」(原題Darwin's Nightmareフーベルト・ザウパー監督、2004年、フランス・ベルギー・オーストリア・カナダ・フィンランド・スウェーデン制作)が挑発的に描いたように、弱肉強食ということなのだろうか…。

  • 現在多くのグローバル企業が、租税回避を目的としてタックス・ヘイヴンに本社を置くようになっているという―たとえばザンビアのコバルトで膨大な利益を上げているグローバル企業の登記上の本社は、タックス・ヘイヴンとして知られるイギリス王室属領にある。
    ―ここには、国籍に関係なく最大限の利益を追求する資本主義の論理が貫徹している。
    グローバル企業は、特定の民族や国家にアイデンティティをもたない。そうした組織においては、正義は企業の内部にしか存在しない。個々の構成員は何の判断もすることはできない。企業の組織原理からして、このことはおそらくいわゆるトップ、最高権力者となっても変わらない。
    仮に組織の最高権力者が、自分の民族、国民の属する国家に貢献するため税率の高い自国に企業を誘致しようとしたとしても、実現はおそらく容易ではない。数パーセントの税率の違いでも、もとの収益の額が大きいと、企業としての損失は膨大なものとなる。資本主義の論理によれば、これは背信行為となってしまう。最高権力者はその地位を失うかも知れない。そういったときに、この事例でみたようなどうしようもない状況にどうやって取り組めばいいというのか…。

Ⅷ.「壁と卵」の比喩

村上春樹は受賞の賛否をめぐって著しく評価が別れたエルサレム文学賞受賞講演で、自分の文学について次のように述べた。「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」。そして、私たちは全員が、本来は壊れやすい「卵」のような精神をもっているのに、「システム」という高い壁の前に直面して、壊れそうになっているのだと、続けた。

また、2011年6月10日、バルセロナでおこなわれたカタルーニャ国際賞受賞講演では東日本大震災に触れ、とりわけフクシマの危機は、「効率」を偏重する日本の、そしてグローバルな文明の方向性によるものだとして「核」の犠牲に対する無反省に警鐘を鳴らす。
この比喩にしたがって言えば、われわれは、ブッシュマン、ヤノマミ、ヒンバ、そしてコンゴの人々、そしてそれらの現実を知ってしまったわれわれという、いまにも壊れてしまいそうな「卵」の実態について見てきたことになる。われわれ自身については生業や価値観について対象化したかたちで検討してはいないが、それぞれの人びとの生き様は、合わせ鏡のように現在のわれわれを映し出していたはずである。
かれらは、そしてわれわれは、もともともっていた生業と価値観そして、それによって培われた精神を、「グローバル化」という壁によって壊されようとしていたのである。そのプロセスは、まさに生の多様性を抑圧する暴力にほかならなかった。しかし、その構造は単純ではなく、ひとつでもない。ひとつひとつの構造のなかにも単純化できない幾重にもわたるアイロニーが潜んでいたことも、その都度示してきたつもりである。

ナミビアのダム建設。ある視点からみれば、牧草地や墓が水没の危機に瀕しているヒンバが卵でダム建設推進派のナミビア政府が「壁」だった。アイロニカルなことは、ヒンバが土着の価値観にもとづくと―おそらく当のヒンバたちもわれわれも―考えていたカオコランドという領土や伝統的首長、そして首長の権威を象徴する墓は、植民地というシステムとの出会いによってはぐくまれたものであり、卵にみえたものは、歴史的構築物であることを見落とすところだった。もちろん、だからといってヒンバの主体的な活動を軽んじてはならない。すべては歴史的構築物なのである。問題なのは、主張を通すための「昔からそうだった」という価値観を何の疑いも持たずに受け入れてしまう愚をおかすことである。

「壁」と「卵」との構造もきわめて関係的なものである。ヒンバに対しては非情なシステムとして対峙している近代国家としてのナミビアも、南アフリカや国際世論、そしてグローバル資本の前では卵のようによわよわしく見えてしまう。

Ⅸ.多様な生をどう生きるか?

人間の「文化」は獲得形質であり、DNAに組み込まれていないことははじめに述べた。だから、その内容については、獲得的、後天的なものであり、環境によって変更が可能であるはずである。今日環境を考えるときに自然環境だけを考えるのはむしろ不自然だ。メディアから入ってくる情報がどうしても鍵となってくる。

前節で述べたような解決不能な複雑な数多くのアポリアをいっぺんに認識することができる、というのはまさに「グローバル化」時代だから起こりうることだ。それは映像も含めたきわめて今日的な情報環境が可能にしていることである。
それぞれが独自にたてた問いに対する「正解」は容易にはみちびきだせないし、ことによるとないのかもしれない。ときには暫定的な答えは出さなければならないこともあるだろう。その積み重ねの結果として、よりよい方向を―それがどういった方向だったとしても―見出すためには、環境の現状認識が必要なその第一歩であることは疑いない。

「ステルス紛争」の語を有名にしたヴァージル・ホーキンスらは、コンゴの事例をとりあげて、コンゴの「ステルス紛争」のことを知ったことを、たんに無力感を味わうだけの経験で終わらせてはならないと述べ、そうならないために、以下の六つを提唱している。①紛争について調べ、発信する。②自主ゼミを開き発信する。③政府を問う。④メディアを問う。⑤企業を問う。⑥活動組織を支援する。いずれも、情報を蒐集し、まず正しく認識すること、そして多方面に活動することをもとめている(『コンゴ民主共和国―無視され続ける世界最大の紛争』大阪大学グローバルコラボレーションセンター(GLOCOL)、2009年、17頁)。いずれも近代主義的な正攻法であり、きわめてもっともな提言であるが、いささかまっとうすぎるようにも思える。これらは、メディアや、企業、そして組織への信頼がないとその有効性が成立しない。根本にあるのが、それらに対する不信だとすれば、いったいどうすればいいというのか。
知のトリックスター、山口昌男は、次のような斜に構えたことばを残している。「知」を拙速に実践的な社会的活動に応用しようとする人類学者に向けられたものだったが、メディアや企業、そして組織への見方も相対化する、ある意味で今日もっとも実践的な警句であるようにも思える。

「人類学者が、未来論にコミットする時に必要なのは、われわれが失った世界をいかに回復するか、いいかえれば、そういった喪失感を痛感できるような感受性をいかに回復することができるかという、裏返えしのユートピアではないのか」
ユートピアとは、どこにもない、ということだから、山口は現状の周囲の環境に対しても十分に批判的であった。ただ、かつては持っていたはずの感受性をいかに回復するかについての処方箋もなく、それもまた解がない問題だとしても、卵の側に立てるのは、文学の、それも物語のなかだけの話だけではないはずだ。
月並みだが、おそらくは、多様な生をいかに生きるか、というアポリアに対する解答も、問いをたてたそれぞれが自らの生をかけてこたえていかなければならないものなのであろう。

参照資料

参照文献

和文
  • 安積純子・尾中文哉・立岩真也・岡原正幸 1990, 『生の技法―家と施設を出て暮らす障害者の社会学』藤原書店。
  • エヴァンズ=プリチャード、E.E. 1982, 『ヌアー族の宗教』(向井元子訳)、岩波書店。
  • 国分 拓 2010, 『ヤノマミ』NHK出版。
  • サーリンズ、M 1982, 「文化は肉と利のためか」(板橋作美・板橋礼子訳)『現代思想』10(8)164―179。
  • 田中二郎編 2001, 「ブッシュマンの歴史と現在」田中二郎編『カラハリ狩猟採集民―過去と現在』京都大学学術出版会。
  • 田中二郎 2004, 「原野の知恵を求めて―ブッシュマンとの37年」田中二郎・佐藤俊・菅原和孝・太田至編『遊牧民(ノマッド)―アフリカの原野に生きる』昭和堂、28―47頁。
  • 田中二郎・佐藤俊・菅原和孝・太田至編 2004, 『遊動民 (ノマッド)―アフリカの原野に生きる』昭和堂。
  • 中川 敏 1992a, 『交換の民族誌―あるいは犬好きのための人類学入門』世界思想社。
  • 中川 敏 1992b, 『異文化の語り方―あるいは猫好きのための人類学入門』世界思想社。
  • 長島信弘 1982a, 「比較主義者としてのニーダム―経験哲学の実践」『現代思想』10(8)、62―68頁。
  • 長島信弘 1982b, 「解説」エヴァンズ=プリチャード、『ヌアー族の宗教』(向井元子訳)、岩波書店。
  • 長島信弘 1983, 「序」長島信弘編「ケニアの六社会における死霊と邪術―災因論研究の視点から」『一橋論叢』Vol. 90(5)。
  • 長島信弘 1987, 『死と病の民族誌―ケニア・テソ族の災因論』岩波書店。
  • 浜本満 1989, 「不幸の出来事―不幸の語りにおける「原因」と「非・原因」」吉田禎吾編 『異文化の解読』平河出版 、55―92頁 。
  • ハリス、M. 1990, 『ヒトはなぜヒトを食べたか―生態人類学から見た文化の起源』(鈴木洋一訳)早川書房。
  • 山口昌男 1974, 「今日のトリックスター論」『トリックスター』ラディン・ケレーニイ・ユング、晶文社、1974年、279―305頁。
  • 吉田禎吾 1982, 「象徴的分類と比較研究―ロドニー・ニーダムの所論をめぐって」『現代思想』10(8)、54―61頁。
  • 吉村郊子 2004, 「土地と人とをつなぐもの―ナミビアの牧畜民ヒンバにとっての墓」田中二郎・佐藤俊・菅原和孝・太田至編『遊牧民(ノマッド)―アフリカの原野に生きる』昭和堂、439―464頁。
  • 吉村郊子 2006, 「伝える力―ことばやふるまいが文字化・映像化されるということ」『歴博』134、15―19頁。
  • ルイス、オスカー 1970, 『貧困の文化―五つの家族』(高山智博訳)新潮社。
英文
  • Bollig, M. 1997, Contested Places: Grave and Graveyard in Himba Culture, Anthropos, 92:35-50.
  • Chagnon, Napoleon A. 1983, Yanomamo: The Fierce People, Third Edition, New York: Holt, Rinehart & Winston.
  • Hawkins, V. 2008, Stealth Conflicts: How the World's Worst Violence Is Ignored, Aldershot: Ashgate.

  • Keesing, Roger M. 1981, Cultural Anthropology: A Contemporary Perspective, Second Edition, New York: Holt, Rinehart & Winston.
  • Needham, R. 1975, Polythetic Classification, Man,(n.s.),11.

映像資料

  • NHKスペシャル「ヤノマミ―奥アマゾン、原初の森に生きる」2009年2月26日ハイビジョン特集、4月12日NHKスペシャル放送。
  • 「ブッシュマンの秘密」原題:Bushman’s Secret、制作:Rehad Desai 、2006年、南アフリカ作品。
  • 「赤土と水」原題:Ochre and Water クレイグ・マシュー監督、オフ・ザ・フェンス製作、2001年、オランダ作品。
  • 「ルムンバの叫び」原題:Lumumba、ラウル・ペック監督、2000年、フランス、ベルギー、ドイツ、ハイチ作品。
  • 「ブラッド・ダイヤモンド」原題:Blood Diamond、エドワード・ズウィック監督、レオナルド・ディカプリオ主演、2006年、アメリカ作品。
  • NHKスペシャル「戦場のITビジネス―狙われる希少金属タンタル」2001年9月22日放送。
  • 「血塗られた携帯」(原題:Blood in the Mobile, Koncern TV & Film 、2010年、デンマーク作品。
  • 「ダーウィンの悪夢」(原題:Darwin's Nightmare、フーベルト・ザウパー監督、2004年、フランス・ベルギー・オーストリア・カナダ・フィンランド・スウェーデン製作。

ウェブページ